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・学童保育からの逃亡

 昨年4月から公立の幼稚園に通っている幸平ですが、両親共働きの為に夕方までは学校内にある学童クラブですごしています。(これは公立ではなく、民生委員の方の発案で発足した民営の学童保育です。)1歳から5歳2ヶ月までを公立の保育園で過ごしてきた幸平ですから、昼までは幼稚園、午後は学童クラブで過ごすことなどどうって事無いと安易に考えていました。実際、保育園の卒園式が済んでからは、慣らしの意味もあって幼稚園入園の前から学童クラブに通わせ始めましたが、同じ様な境遇の子供達が何人かいて、幼稚園のお友達が早くもできたと喜んでいたくらいです。人なつっこい幸平はすっかり学童クラブの指導員の方にも慣れ、私たち親もほっとしていたものでした。
 さて、そんな平穏な日々の中で事件は突然発生しました。幼稚園入園から間もない夕方。いつものように学童クラブにお迎えに行くと、指導員の責任者の方から「きょう、幸平ちゃん学校からいなくなったんですよ。」と言われたのです。いきなりの発言だったので、「????」すぐには事情を飲み込むことが出来ません。更に詳しく事情を聴いてみると、小学校のグランドで遊んでいて、おやつの時間になったのでみんなでクラブの教室に帰っている最中に突如姿が見えなくなったらしいのです。(この学童クラブは小学校の空き教室を使用しているので、子供達の遊び場は必然的にグランドや校舎周辺になります。)慌てて学校周辺をみんなで探したらしいのですが、結局小学校のPTA会長さんが自分の子供と一緒に自宅に帰ってきた幸平を小学校まで連れてきてくれたのだそうです。どうもグランドで一緒に遊んでくれたそのお兄ちゃんがうちに帰ると言ったので、ついて行ってしまったそうなのですが、学童クラブの保育範囲や、すぐに人について行ったらダメだということを幸平にしっかり教えていなかったことを反省しました。と同時に子供がいなくなったのにすぐに親に知らせてくれなかった学童クラブの体制にも疑問を感じた事件でした。いくつかの問題がありましたが、まずは幸平のしつけのことを改めなければと、それからの休日は(職場が代休制の週休2日なので平日に休みが取れるのです。)ひとり幼稚園参観日と決めて、ひたすら幼稚園に通ったのでした。園での幸平の姿を見るためと、しつけや子供に対する自分たちの考え方をを担任や主任先生に相談して客観的な意見を聞くためでした。
  この逃亡事件をきっかけに幸平と私たち親の関係は少しずつ変化して行くことになります。  

・「3〜4歳の頃に身に付くべきものが身に付いていないんです。」

 逃亡事件から始まった私の幼稚園詣では、主任先生の厳しいダメだしから始まりました。集団生活を送るのは幼稚園や学校の中、だから幼稚園の先生達はその中での問題点をじっくりと観察して対策を練っていく。また、年齢や経験に応じた発育ステップを常に意識して子供達を導いていく。これが幼稚園の指導者達と数時間懇談した私が得た「幼稚園」でした。それは5年近く通 っていた「保育園」とは全く違うものでした。「保育園」では、働いている親を持つ小さい子供の世話を長時間するため、とにかくけがや病気をさせることなく、食事をちゃんとさせて無事にお迎えまでの時間を過ごさせることが、最大の目的だったと感じています。保育園時代にも、幸平の態度(「絵本の時間に1人でテラスを走り回っている」ことや、「着替えや食事の片づけが遅い」ことなど)が指摘されたことがあります。そんなとき、私は必ず保母さん達に「どんな風に家で指導したらよいのか」と質問しましたが、「難しいですねぇ。おうちでも早く着替えるように言ってみて下さい。」とか、「こうしたら、こんな風に子供が成長するというものじゃないですからねぇ。」と答えるだけで、教育者としての具体的なアドバイスをもらったことがありませんでした。「保育園」での指摘を気にしながらも、年齢を重ねるうちに幸平の理解度も高くなり徐々に問題点も解決していく、そんな具合に気楽に構えていたのでした。
 ところが、「集団の中で、自分がしたいことに折り合いをつけてみんなと同じ行動をすることの重要さを知るのは3〜4歳の頃です。この頃のおうちや保育園での大人達のかかわり方に問題があったのでしょうが、おかあさんは心当たりがありませんか。」主任先生の単刀直入な言葉に大きな衝撃を受けました。実際、幸平が3歳〜4歳にかけて私は多忙な日々を送っていて、主人と私の子育ての比重はフィフティーフィフティーでした。主人はよく子供と関わりを持つ人ですが、小さい頃は、やはり母親の存在が子供の成長に大きな影響を与えるようです。その点では確かに幸平が3〜4歳の頃の私のかかわり方は不十分だったといえるかもしれないと初めて自覚したのでした。
 それからの私は、過ぎた大事な次期のことを毎日後悔し、幼稚園や学童クラブでの幸平の行動を案じて過ごしました。一頃はそのことで頭の中がいっぱいになり、仕事に支障をきたしそうになり、本気で仕事を辞めることも考えたほどです。思い悩むばかりの日々を過ごし、体重が4キロほど減った頃、学童クラブに子供を託している保護者で作っている「保護者の会」の会長さんが(彼女は小学校の先生です。)教育講演会に誘ってくださいました。そして講師の大学教授の著書と一緒に「親業」という本を持ってきて「役に立つかも」と貸して下さったのです。
  これが、私と「親業」の出会いでした。

・「親業(おやぎょう)」っていったい?

「親業」?耳慣れない言葉ですが、新しい子育ての考え方という副題がついたその本は、核家族化して子育てについて昔のように周りからのアドバイスが受けにくくなっている現代の親たちに、『親の考えを押しつけ親の思い通りに子供を矯正していく育て方を由としていないか』と問いかけるような内容のものでした。子供の気持ちを汲み取って、なおかつ子供にも親の気持ちを伝えてお互いに十分な意志の疎通を図っていく、言い換えれば、親と子がお互いを理解し合って初めて子供が社会と理解し合えるのだから、親はその基盤を家庭の中で子供にシュミレーションさせてやるのだというものでした。
 「親業」の本の中には、実際に親業講座に通った人たちが家庭に戻って子供に接する態度を変えてから、どのように子供の反応が変わったか、その実例が載っていました。一見、とても理想的な実績と思えるものばかりで、「講座で習ったとおりにやってみたけれど思ったほど成果は上がらなかった。」なんてことは全く書いていないのがちょっと気になりましたが、読み進んでいくうちに、今まで私がやっていた幸平への言葉掛けや接し方のほとんどが、書かれていることと逆のことだったのには正直ショックでした。更に、「親業」の本を読み進めるのと同時に、インターネットのホームページで「親業講座」について検索して、どのような地域で開講されているのか、どのような内容で紹介されているのか、などを調べてみました。こうして、私の「親業」理解度はどんどん深まっていったのでした。インターネットで検索してみて、親業講座は大分県でも開催されているが、年に一回(隔週で8回行われるので講座終了までには4ヶ月かかるため)しか開講していないとのことでした。これを待っていては来年の春まで手つかずと言うことになるので、とりあえず「親業」の本、それからこの本の原著であるトーマス・ゴードン博士の書いた子育て論を読みながら、我流の親業子育てを始めてみることにしました。
 幸平、初めての夏休みのことでした。

・「親業」実戦開始

  さて、夏休みに入ったのをきっかけに幸平への働きかけ、言葉がけを今までとかえてみようと考えました。いよいよ親業の実践です。これまでもいろいろなやり方を試行錯誤してきましたが、いわば模索していたという表現がぴったりといった感じのもので、その実践方法には裏づけや確信、そして一貫性といったものがありませんでした。
 今回試してみようとしている方法は、一応参考書(?)があるわけで、その中には実例集までついているのですから、それらに後押しされて実践する私の方にも自ずと勢いがついてきます。この方法を実践する最大の課題は、親が子供に対してどこまで自制心を保てるかということです。職場で部下に対しては(上司にはなかなか自制が効かないのですが)、『めったに怒らないけど怒ると恐い「けいちゃん」』と異名(?)をとるほど自制心を保てる自信のある私ですが、こと家庭においては主人がよく怒らないなぁと思う程自制がききません。「わがままな妻」、「結構怒るおかあさん」ということは十分自覚していました。だから、さっきは参考書があるから親業の実践に勢いがつくなんて書きましたが、実際はそんな簡単なことではないことくらい分かっていました。むしろ、結構難しいことなのです。とりあえずは、自分が理解している内容に沿って実践です。食事の時間になりました。その日は帰りが遅くなった上にいつもは朝のうちに夕食の支度をして行くのですが、それもしていなかったので準備に時間がかかり、食事の時間も下がっていました。平日はできるだけテレビゲームをしないようにと言っているのですが、そのような事情から食事の準備ができるまでと許可をしていました。案の定「ごはんよ」と声をかけても、生返事をするばかりでいっこうに止めようとしません。そのうち、「まだ、最後までいっていないのにどうしてぇ」と喚き出したので、このときだぁ!とばかりに親業を実践しました。

 母:「そうか、最後までしたかったんだ。」
幸平:「そうで、まだ最後までいってないのにぃ。」
 母:「最後までしたかつたんやな。」
 幸平:「……。」
 母:「でも、ご飯が食べられるようになったんや。みんなお腹すいてるけん、幸平が来んと食べられん
    でイライラするやろ。」
幸平:「もういい!」

……失敗の巻でした。 そううまくはいかんぞというところでしょうか。
  幸平も「いつもとちょっとおかあさんの言い方が違うぞ」と思ったとしても、こちらの期待するような反応をかえすことなど考えてもいないでしょうし、これまでの長い叱られ人生から考えると、状況の変化に戸惑っているのも当然かもしれません。会話の中の幸平の「……」沈黙にも表れているように思います。親業の基本は、子供の言うことを親が繰り返すことによって、自分の言ったことを確認させ、その後のことを親が先に指示せずに子供に考えさせるように促すことです。そして、親が自分の気持ちを子どもに伝えること。こういった言葉掛けや行動を繰り替えししていくことで、子どもの自主性を育て、他人の気持ちを汲み取ることのできる人に育てていくのです。
 こんな不発のスタートでしたが、毎日チャンスを狙っては親業ビームをうち続ける日々が続きました。

「親業」ビームの成果あり?

 夏休みも中盤にさしかかろうとしていたある朝のこと。前日、児童クラブで5時からやっている掃除をなかなかやろうとしなかったと聞いていたので、そのことについて幸平と話していました。

 母:「幸平、昨日夕方の掃除せんかったけん、ご褒美の飴もらえんやったやろう。」
幸平:「でも、ぼくちゃんと掃除したけど飴くれんかったんや。」
 母:「ちゃんと掃除したのに飴くれんかったん?」
幸平:「ぼくちゃんと掃除したんで。」
 母:「そうか、ちゃんとしたのにもらえんかったんか。おかしいなぁ。」
幸平:「おばちゃん(指導員の方)見てなかったんや。」
 母:「そうかなぁ。結構よく見てくれてると思うけどなぁ。」
幸平:「……。」
 母:「(ちょっと考えているふうだけど行き詰まっているのを感じたのでお助けする)
    今日さぁ、やっぱりお掃除しても飴もらえんかったら、おばちゃんにどんなところが悪いか
    聞いてみたら? ぼく、お掃除したけどなんでもらえんの?ってお尋ねしてみたら?」
幸平「そうやな。わかった。」

ちょっと成功!と思いました。(未熟なわたしがお助けしてしまったので)
これまでも、いろいろとアドバイスをしたことはありますが、こちらがお話の締めくくりに「わかった?」といって、「うん」とか、「わかった。」ということはありました。でも、この日の「そうやな。わかった。」という言葉は、いわば自主的に出てきた言い方だと感じたのでした。実際、この頃の幸平は児童クラブでも落ち着いていたようで、生活態度についても注意されることがあまりなく、注意されても落ち着いて聞けていたそうです。

・思わぬ挫折

 ところで、今年は主人の父の初盆だったために8月に入ってからはばたばたする日が続きました。わたしや主人はそうでもないのですが、義母は大黒柱を失ってもしっかりやっていけるのだというところを世間に見せなければと気持ちが張っている様子でしたので、やたらと忙しなく動いていました。気持ちというものは、動作や言葉にも表れるものですから、つい自分の忙しない気持ちを子供や孫である幸平に押し付けることになります。わたしたちはそういう状況や義母の気持ちを理解していますから仕方ないものと受け入れられますが、幸平にとって心穏やかな休日にはならなかった様でした。今回の出来事で、わたしが試してきた親業の基本姿勢である子供に自分自身が言った言葉を理解させ、お互いの気持ちを分かりあえるように努めるということが、予想していた以上に幸平を落ち着かせているのだということを実感することができました。
 8月13日、盆休暇の初日です。たくさんの初盆参りの方が見えることが予想されていたので、あらかじめ幸平に今日がどんな日でどのように過ごすのかということを話しておきました。以前の私であれば、そんな説明をしても解らないだろうと勝手に判断し、来客があるときに幸平が騒いでいたら叱る、そんな対応をしていたと思います。でも、親である私の気持ちを知っていて欲しいという想いから、自然とそういった態度にでていたのでした。幸平に言った言葉はこんなものでした。

 母:「きょうは、お盆なんや。お盆にはいっぱいお客さんが来ておじいちゃんにお参りをするんで。
    おじいちゃんはもう死んでしまったけん会えんけど、おじいちゃんのことをみんなで思いだし
    てお話するんや。」
幸平:「いっぱいお客さんが来るんやな。」
 母:「そうで。幸平どんな気持ち?」
幸平:「ぼく、楽しい気持ち。」
 母:「いっぱいお客さんが来るから楽しい気持ちなんやな。」
幸平:「うん。」
 母:「でも、おじいちゃんにはもう会えんから、寂しい気持ちのお客さんもおると思うよ。」
幸平:「なんでぇ。」
 母:「幸平はおじいちゃんのこと好きやった?」
幸平:「うん。好きやった。」
 母:「おじいちゃんが死んでしまってからは好きなおじいちゃんに会えんやったやろ。どんな気持ち
    やった?」
幸平:「会いたいなぁって思った。」
 母:「今日来てくれるお客さん達もみんなおじいちゃんが好きやったから、会いたいなぁ、会えんで
    寂しいなぁって思ってるんや。」
幸平:「ふぅ〜ん。」
 母:「だから、お客さんが来たときは、お客さんがおばあちゃん達とおじいちゃんのお話ができる
    ように、幸平は静かにしといてほしいんやけどなぁ。幸平が走り回ったりしてると、お母さん
    も困るんや。」
幸平:「うん。わかった。」

本当にどこまで解ってくれたか、正直言って不安でしたが、実際この日の幸平の態度は落ち着いていて私や主人はもちろんのこと、義母からも叱られるようにことはありませんでした。義母は「幸平も幼稚園に行くようになったらいい子になったなぁ。」と幸平に言っていましたが、その言葉がいっそう幸平に自信のようなものをつけてくれたなぁ、と感じていました。
 8月14日、初盆2日目です。昨日の夜あたりから、気を張りすぎたためか義母の気持ちが荒れ始めます。嫁である私の気のきかなさに苛立っているけど、性格的にストレートに伝えることができないことからくるストレスも手伝って、言葉や表情がだんだん険しくなってきて、気持ちの許容量が少なくなっていました。それを感じている私のほうも気持ちを広く持つことができなくなりつつあり、義母の言葉、表情を常に観察しているような状態が続きました。子どもは敏感です。というより、大人が自制心を保てなくなり子どもにそれを見せているからだと思うのですが、幸平は叱られるようなことばかりし始めました。そのうち茉裕子までぐずぐず言い出して家の中は不穏な状態、なのに来客は後をたたない、とっても参った一日でした。幸平の反応や行動についてその原因や理由を自分に振り返ってみることが習慣になりつつあったわたしにとって、昨日と様子が違うことをどう考えればいいのかなぁと、思い始めたころ、些細なことで主人が幸平を叱り始めました。

まあさん:「幸平は、昨日はあんなに良い子やったのに今日はどうしてかなぁ、起こられることばっかり
      しよるなぁ。」

 主人としては、些細な悪い態度が一日いる内に蓄積してきて、叱らなければならない閾値を越えたために叱ったのだと思いますが、叱るきっかけになった些細な出来事を見ていた私にとって、そんなことぐらいで叱らなくてもという気持ちがありました。(以前は私も些細なことで叱っていたので同じなのですが、自分のことは見えないのですよね。……反省)
 その状況を見ていて、ふと思ったのですが、今日の大人達も昨日に比べると(表面では取り繕っているけど)良い子じゃなかったなぁ、ということです。自制の切れるのが早い、雰囲気がとげとげして悪い、忙しくて気持ちに余裕が持てない。そういう時もあるよと思います。聖人君子じゃないんだし、状況も状況(まだ義父が亡くなった当時の記憶も新しい初盆)だし…。でも、子どもにはそんな複雑な気持ちを理解するだけの経験がないから、私が想像する以上に状況の変化に戸惑っているのだろうと思うのです。幸平を叱っている主人に「幸平にTPOを教えることも大事だけど、今日は大人がバタついていることが幸平を落ち着かせない原因になっているんだと思うよ。よく周りを見てん。」と言いながら、さて、どうしたものか、と考え始めていました。自分勝手な考えですが、こんな状態が明日も続くようだと、夏休みに入ってから努力し続けてきた親業の成果が後退してしまうんじゃないか、それだけはどうしても避けたい!良い方向に進んで行くまでの課程はとても長く忍耐のいることだけど、悪い方向に進む課程というのは結構短く容易です。ましてや元の(悪い)状況に戻ることなど、まだ親業子育てを始めて日の浅い私たち親子にとってこれほどたやすいことはない、そう感じたのです。とても焦りました。
 結局、夏休み後半にその成果(?)が現れることになるのでした。

・ため息……ため息……ため息

 夏休みももう何日かで終わろうとしていたある日の夕方、いつものように主人が児童クラブへ幸平を迎えに行ったとき、指導員の方から「夏休み中は結構落ち着いて過ごせていたのですが、お盆過ぎぐらいから注意されることが多くなり、それはまだ良いんですが、注意されても聞いていないというか、今言われたことをまたすぐにやってしまうんですよ。」と言われたそうです。盆休暇中のことについては、私がしつこいくらい主人にあれはまずかった、幸平にとってはマイナスになることが多かったと言っていたのですが、主人にとっては身内を亡くした義母の気持ちを思うと私の言い分を素直に受け入れることに少なからず抵抗があったのでしょう、あまり賛同はしてくれませんでした。
 その日、主人は指導員の方に初めて自分たちが子育てをどう見直し、どう取り組んでいるかということ(クラブの保護者会の会長さんと子育てに関する講演会に出かけて勉強したり、インターネットで子育て質問箱に寄せられた悩みとそれに対する専門家の返事を探して読んだり、子育てに関することをいろいろ調べて自分たちに足りなかったものは何か、どんな風に幸平に働きかけをしていくかと言うことをいつも考えていることなど)を、蕩々と話したそうです。いつもは注意されても「そうですか。わかりました。」としか言わない主人ですので、よく指導員の方から「今度お母さんとゆっくりお話ししたいので、おかあさんに伝えておいて下さい。」といわれていましたが、珍しく饒舌で真剣な主人の演説(?)を聴かされて、指導員の方も「そうですか。じゃあこちらも見守っていきます。」と言ってくれたそうです。言葉には出さなかったのですが、多分主人も盆休暇中の大人の態度が幸平に与えた影響については解ってくれたと思いました。でも、「親業」ビームは始めから打ち直しです。ため息……ため息しか出ませんでした。
 このとき、私の体重は4月の頃に比べて5キロ減っていました。これ以上のダイエット法はない、でもこんなにつらいダイエット法もまた無いよねと、ひとりごちていました。

・子供がかわいい

 一進一退の「親業」の日々、相変わらず私の体重は減ったままでした。子育てに悩みつつも、毎日の仕事は続けているので、当然出張とかも時にはあります。
 今年は特に出張の多い年で、特に8月から11月にかけてはほぼ毎月、3〜4日間の出張があり主人は二人のぽよぽよザウルス相手に文字通り奮闘していたようでした。わたしには、「(ひとりで二人の怪獣の面倒を見る事なんて)全然苦にならんよ。」なぁんて言っていましたが、ホームページの「不定期日記」には「早く帰ってこいよぉ」なんて書いてあったから、結構大変だったんじゃないかと思います。(実際、大変だと思うよ。)
 自分一人で子供の面倒を見ることに関して、主人は滅多に不満を言いません。むしろ私の方が子供と自分だけという環境におかれると不安を感じる方です。もともと、私は子供が苦手で、いまでも自分の子供と同年齢以上の子供とのコミュニケーションの取り方が解りません。振り返ってみると、人とのコミュニケーションの取り方そのものもあまり得意ではないと思います。人とのかかわり方がうまくつかめず、いつもそのことをコンプレックスに感じ続けてきました。そんな私にとって、子育ては自分自身の可能性を確認するためのチャレンジでした。私でもひとりの人間を生み育てることが出来るんだということを自覚するためのチャレンジだったのです。子供にとっては迷惑なことだったのかもしれませんね。育ててもらおうと生まれてきた先の親自身を子供である自分が育てる羽目になるなんて。でも、この事実について私自身が本当に自覚したのは、幸平が学童クラブからの脱走事件を起こし、いままでの子育ての仕方じゃまずいぞと考えるようになってからです。これまで書いてきた親業に基づく子育て方法を実践するようになってから一番感じることは、親の私が子供に育てられているということです。そして、子育ては子供が育ち、その過程で親が育てられるということです。
 幸平は今年の1月に6歳になり、4月で小学一年生になります。私も親としては6歳ですが、実力はようやく1歳というところでしょうか。親としての自覚が乏しく、子供を本当の意味で見守ることの出来なかったそれまでの日々は、似非(エセ)親時代だったといえるでしょう。いまの私に言える「親として自覚する」ということは、子供とともに育っていることを自覚すること、子供をかわいいとしみじみと感じられる感性を持てることだと思います。小さい子供特有のかわいい仕草や表情のことではなく、新しい発見に目を輝かせたり、緊張する場面で「あがる」という感情を体験しているのを見て、「あぁ!かわいい!」としみじみ思うようになれたことを、私は自分の、親としての成長と思っています。

・「親業」からリンクOKの返事が来たよ

 私流に「親業」のやり方を解釈して、私流に実践してきたけれど、こんなやり方について本家はどういう感想を持つだろう。ある日、ふと考えたんですよね。
 きっかけは、職場の同僚が1年前の私のように子育てに悩み、子育てのやり方を模索しているのを見て「親業」を紹介したことでした。私は我流で「親業」を実践し、その少しずつの成果にそれなりに親としての自信を持てつつあります。決しておごることなく、初心を忘れず子供との関わりを考えていくこと、いまではそれが私の日常の大事な事柄の一つとなっています。だから、自分がやってみて良かったと思うこと、経験したからこそ勧められる「親業」のホームページのことを、じぶんの記録としていままで書いてきた「子育て奮闘記」と一緒に同僚に紹介したのです。長々と書きつづっていて、何ら面白みのない「奮闘記」ですが、(それに比べると旦那の書いている「不定期ダイアリー」はギャグ満載?で面白いと思う)もし読みに来てくれた人が「親業」に興味を示したときのために、リンクがはれたらなと考えて「親業」の事務局にメールを送ってみました。そしたら、数日後返信が届き、リンクOKとのことでしたので、興味のある人はリンクのコーナーを見て下さいね。
 ちなみに、私は「親業」の回し者ではありませんのであしからず。「親業」のアクセス実績が急増してもリベートは一銭も入りませんよぉ。

・学童クラブにはまることにしました

 4月から幸平はピカピカの一年生になりました。それとともに、幸平の学童クラブ(以下学童)生活は2年目に入りました。昨年度は23名だった学童数が、昨年の新聞(昨年、市内の学童保育についての特集が地方紙に載ったので)の効果か、17名増えて40名になり、いよいよ本格的に活動といったところです。
 去年は、幸平の学童逃亡から始まった一年でしたが、親として何かと学童にはお世話になり、また、学童に悩まされた年でした。この子育て奮闘記の「学童からの逃亡事件」にも書きましたが、幸平へのしつけには“親としてしつけに対する態度を見直すこと”に加えて“学童の指導員の認識を見直してもらう”事が大事だと考えています。
 幸平の所属する学童は、地域の民生委員の方の呼びかけで始まった組織です。(うちの市は、こういう児童福祉関係については行政があまり積極的ではないようです)そのため、指導員は普通 の主婦のボランティアでした。現在のように児童数が増えて、ある程度児童クラブとしての形が出来、補助金が出るようになってからは指導員の数も増え、給与も支払われるようになりましたが、やはり全員普通 のお母さん達でした。この普通のお母さんというのがポイントです。まず、いわゆる保育のプロが指導員をしている他の学童クラブに比べ好ましいと考える点は「子ども、保護者に関する全ての事柄について、とても人情味あふれる対応をしてくれる」ことです。つねに、自分たちがこの子達の親だったらという視点で保育してくれます。そのため、学童の決まり事についても過ぎるほど臨機応変です。つまり、「規則ですから」と、シビアに切り離されることがないのです。これを逆方向から見るとこうなります。ほとんどの方がお母さんになってからずっと専業主婦でしたので、学童クラブという「組織」を作って行くには、情に流され過ぎていつも悩み迷っている状態でした。また、お母さんとしては、2人〜3人を育てたプロですが、他人の子ども達を保育していくことと自分の子どもを家庭内で育てることは、根本的に違うんだという意識があまりありません。ですから、子どもに問題が起こったとき、問題定義しか出来ず、親も指導員も感情が平行したままなかなか解決に至らないのでした。去年一年間見てきて、問題は、学童がしっかりとした「組織」として確立されていないことにあると思いました。ボランティアから始まった組織は、児童数が増えて形が出来てきた現在もなお、ボランティア組織のまま「お助けしている状態」なのです。また、本来なら保護者が学童という「組織」を作って、そこが指導員を依頼するという形で運営していくものなのですが、その保護者会がしっかり出来ていないため、保護者と指導員の関係が明確ではなく、お互いに対応が解らないままなんとなく過ごしている状態なのです。
 3月の保護者会の数週間前、どういう理由からかは解りませんが、保護者会の会長さんから来年度の会長を引き受けてくれないかとの打診がありました。まだ組織としてしっかりしていないため、役員の選出もこんなものです。実際は、会の中で公募する形ですが、やってくれそうな人にはこんな具合に打診しておかないとなかなか決まらないんだろうなと思います。保護者会までの数週間、じっくり考えて、自分がやれそうなこと、やりたいことが大分はっきりしてきたこと、また、学校の役員は役員会がほとんど日中に行われるので仕事をし、下の子がまだ病気をしやすい年齢の私には無理だけど、学童なら役員会も夜にするし、幸平の家庭外の生活に関わっていられるのでやってみようと思い、引き受けたのでした。保護者会で正式決定してから、幸平に早速報告しました。思った通 りぴんときてはいない様子だったけど、おかあさん、幸平達が今までよりも一層元気に遊べるように、一層心穏やかに過ごせるように頑張ろうと思います。

・小学校とのつきあい方って?

 さて、小学校に入学した幸平はとっても張り切っていました。入学式の日、式の後早速最初の授業がありました。授業と言っても、1人ずつ先生から名前を呼ばれたり、去年の3年生が校内菜園で作った野菜の名前をあてっこしたりというものでしたが、自分の意見を言うのにどの子も一生懸命でした。まだ手を挙げて先生から指名されたら意見を言うなどという決まり事はないので、どの子も思い立ったら自分の席を立ち、先生の所まで行って、耳打ちするのです。(耳打ちっていうところが面白いんですよね。)自分の意見を受け容れてもらえてすっかりご満悦の子ども達は、苦笑いの親たちと一緒に元気に帰って行ったのでした。
 翌日、本格的にランドセルを背負っての登校です。朝、家を出るとき、幸平はにこにこしながら「あぁ〜、ぼく楽しみぃ〜」と言うので、何がと聞くと「きょう、どんな宿題が出るか楽しみなんやぁ。」と言います。あぁ、お勉強したいんだなと思いつつも、「う〜ん、最初の日から宿題は出らんかもよ。」と言うと、「ふ〜ん。」と言いつつもあまり分かっていない様子。まあ、1日経ってみたら最初の頃の授業ってこんなものかと解るだろうと思いました。その日、帰宅してから「学校どう?宿題出た?」と聞くと、「ううん、出らんかった。」と平気そうに答えました。
 そのうち、幸平に少しずつ変化が見え始めました。はじめは「学校楽しみ」という言葉が出てこなくなったことでした。ちょっと、はじめの勢いが無くなってきたのかな程度にしか考えていなかったのですが、そのうち「学校は楽しいけど、ヤマハおんがく教室の方が楽しい。」と言うようになってきたので、あれっ?と思いました。
 入学から10日ほど経った日、学童からの帰り道、車の中で「きょうは、何時に学校についたの?」と尋ねると、「8時32分ぐらい。」と答えました。(うちから学校までは子どもの足で40〜50分ほどかかるため、ほとんどぎりぎりに学校に着くのです。幼稚園と違って小学校は8時30分までに着かないと遅刻になるので、入学してからほとんど毎日到着時間を聞いては、「遅刻」ってどんなことか、「遅刻」したらどんな困ったことになるのかを話していました。)32分とは、またずいぶん細かく見てるなぁと思いつつ、「チョットだけ遅刻しちゃったんだね。」と言うと、「うん、ぼくが教室に入ったらお手紙がおいてあったんや。‘体育館にいるから、きてね’って書いてあったから、ぼく体育館に行ったんや。」と言うのであれっ?と思いました。だいたい小学校での活動が始まるのは9時くらいからのはず、もしかしてきょうはすっっっごく遅刻したんじゃないのかなと思い、思わず担任に電話で尋ねてみたんです。(後でこの話を元教育者の父に話すと、緊急連絡以外は担任の自宅にまで連絡するのは感じの良いやり方じゃ無いそう。つまり、家に帰ってまで学校のことに振り回されたくないはずということでした。)すると、やはりこの日は9時頃に学校にやってきたらしいのです。しかも、一緒に行っている上級生の子は、幸平があんまりぐずぐず歩くので待てずに先に行ってしまったらしく、幸平は通 学途中にある書道教室に寄り道したため、書道教室の先生が学校に連絡して下さり、そのおかげで学校側も探さなくて済んだとのことでした。担任が幸平に「何か我慢していることがあるんじゃないの? 」と聞くと、最初は「別 に何にも我慢していない。」と言っていたらしいのですが、そのうち「ぼくお母さんと一緒にいたい。」と言ったのだそうです。電話で、「愛情を求めているんじゃないんでしょうか。」と言われましたが、今回は幼稚園のころのように素直に納得することが出来ませんでした。
 まず、第1に幸平に「何か我慢していないか。」と尋ねるあたり、最後に行った「愛情不足ではないか」ということをはじめから想定していたのではないかと感じます。幼稚園の初期の頃から考えると、幸平との関わり方を随分意識し、特に入学してからは私たちの想像以上に何かとストレスを感じているのではと考えて、「何事も急かさない」「一緒に風呂に入ってたくさん話をする」「翌日の準備を一緒しながら少しだけ学校の話をする」ことを心がけてきました。第2に、書道教室で「ぼく、足が痛いから早く歩けんのや」と言っていたことです。実は、その日の朝、何日も前にしたけがを見せて同じ事を言っていたのですが、みんなと歩こうと励まして家を出していたので、すでにその時から兆候はあったのでした。この理由は薄々解っていたので、この日の朝は励まして出したのですが、私が考えていた理由以外にもいくつかの気持ちが複雑に絡み合っていたのかもしれません。また、書道教室の先生が「なんだか、学校があまり楽しくないのかしら」と言われたことも、単に「愛情不足」では無いという私の予想を確信に近くしていきました。
 その日の夜、少しずつ少しずつ幸平と話し、幸平のいくつかの気持ちを知ることが出来ました。チョット複雑すぎるので、ここでは省きますが、「近頃の親は……」という学校側の先入観、また「共働きだから気づかずに愛情不足になっているのでは」という先入観に対してこの先どうやってつきあっていけばよいのか戸惑っているところです。

・さまよう茉裕子

 うちの子は,どうして二人揃って親の後をついて来られないのだろう。どこのうちの子もこうじゃないよね。幸平はもう小学三年生だからデパートとかでも好き勝手に見て回るのもしょうがないとしても,右と左がかろうじてわかるくらいの茉裕子までもが広〜いショッピングモールの中を自由に歩き回るのにはほとほと困り果てます。
 先日も、県内屈指の広〜いショッピングモールで自由に動き回り,私とまあさんは青ざめ,幸平は「離れないで付いて来るのよ!」と理不尽にもとばっちりを受けて,みんなで探し回ること20分。近場は探し尽くしたので,とうとう案内係の方に携帯で店内に連絡をつけてもらっていると,まあさんが向こうの方から茉裕子の手を引いて歩いてくるではないですか。聞くと,私たちがいる場所から一番離れた家具売り場で,回転椅子を回して遊んでたとのこと。まあさんがそばに行くと,「あら,パパじゃない」と言わんばかりの表情だったそうな。自分が迷子だという意識すらない状態でした。あぁあ……。ほっとした瞬間に涙する私を見て,何を思う,茉裕子。

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補足(byまあさん)
この日の朝、お出かけするときに、「まゆこ、サンダルを履いていく〜〜〜っ!」とわがままを言い、案の定ショッピングモールに着くと「足がイタ〜イ。歩けな〜い!」と言い始め、結局靴を買ってやることに。で、ショップにて靴を選び、お金を払っている隙をつかれて、彼女は逃走したのだった・・・。ん?足が痛かったんじゃないの? だったら近場に居るはず! と目論んだんですけど、探せど姿は見えず。結局、サンダルのまま意外にもいちばん遠い家具売り場まで行っていたところが、発見を遅らせた原因なんですよね。 「ホントに足痛いのかよ!」「サンダル履いててかよ!」(三村突っ込み状態)

・学童クラブ保護者代表、任期満了で退任!

 幸平が所属する学童クラブの保護者会代表を2年間務め、今年度は退任させてもらって若い代表にバトンタッチしました。2年間の役員時代の間に、クラブや保護者会の体制や、指導員の資質は(手前みそですが)格段に進歩したと自負しています。もちろん、わたしが助力できた部分はほんの少し。まだ発展途上の部分が多いので、むしろ今度の若い代表と、実力を付けた指導員達に大いに期待をしています。
 就任時代、保護者の集まりの中に「みんなで子育てを勉強する会」を作りたいとずっと思っていました。講演を依頼する講師も密かに目をつけてたんです。つい先日、その勉強会が実現しました。わたしはアドバイスをしただけで、すべて指導員と新役員のみなさんがやってくれたので、当日は、一保護者として参加することが出来ました。かつて指導員とともに話していたひとつの目標を、代替わりした人たちが引き継いでやり遂げてくれるって言うのは、なんとも良い流れが出来たなと感慨深いものがありました。
 実際の現場は、勉強会で聞いた話だけでは対応できないことが多く、子供にも、大人にも、家庭にも、根深く複雑な問題がたくさんあります。これは、2年間学童に深く関わったからこそ解ったこと。
 自分の子供も、他の子供も一緒に育てること、またそれを意識することがいかに大事ほか、これもこの2年間で学んだことのひとつです。

・茉裕子はおたふく?

 2日前の朝、「あごが痛い」と言って茉裕子が起きてきた。

「もしや・・・おたふく風邪?」

 そう、実は今、茉裕子の保育園では、おたふく風邪が大流行中なんです。とうとう茉裕子にも魔の手が伸びたかぁ。予防接種を怠っていたことを反省しつつ、朝の6時半に隣町に住む実家の母にSOSの電話をしました。
  とりあえず翌日、翌々日と休暇届を出して、夕方帰宅すると、母が「病院に行ったら、おたふくじゃないって言われたよ。腫れるところが違うってよ。」と言うんです。でも、その日の夜、39℃まで発熱したし、翌日の夜から耳の下を痛がっているので、今日もう一度受診してみました。あまり極端に痛がらないし、腫れも少ないせいか、「まぁ、保育園でも流行ってるんだったら、おたふくでしょうね。」という先生のお言葉。なんだかなぁ、と言う感じです。今かかっている小児科は2代目(前の小児科は、3回「はぁ〜?」と思うコメントをされたので見限った)。でも、なんか曖昧なコメントが多いし、「学会出張のため休診」ってのにもなったことがないし、勉強してないんじゃないの?って、ちょっと不信感です。「ふつう、おたふくは顎下腺から腫れるモンですが、耳下腺から腫れ始めるのは少ない。完治するまで長くかかるでしょう。」と言われたんだけど、まあさんもわたしも、初診の時にやっぱり顎下腺が腫れてたんじゃないのかなと思う。いずれにしても出された薬は同じだったので、治療方針は違ってなかったってことになるけど(苦笑)
  おたふく風邪には不顕性感染も多いってことくらいは私も知ってる。今日、本で調べたら、「腫れが少なく、発熱もしないことがあるので気づきにくい場合もある」とのこと。
  小児科3代目探すかなぁ。

・幸平の「悲しい」出来事

 先日、迎えの車に乗ると、幸平が変な表情をしていました。

「どうしたん?なにかあったん?」

 聞くと、幸平が夏休み学童にもっていって読んでいる本が破られ、落書きされたとのこと。犯人の目星も付いているらしいのです。この本は、目の見えない犬について書かれた本で、小学校の推薦図書購入で買った物。以前テレビでドキュメントを見ていて、感動したらしく、推薦図書のチラシをもって帰ってきてとても欲しがっていたので買ってやった物でした。いたずらをしたのは同じ学童に通う男の子2人でした。2人ともいたずらをする直前まで、一緒に幸平と遊んでしたらしいのですが、2人のうち1人は、それが幸平の本だとわかってやっていました。
  翌日、いたずら犯人がはっきりとその2人だと分かったとき、幸平の反応は、「怒り」ではなく、「悲しみ」でした。悲しみは2つ。ひとつは「大事な本を傷つけられた」悲しみ。もう一つは「一緒に遊んでいた子なのになぜ」という悲しみ。この子の思考はこんな風に展開するんだなぁ、と再認識させられた事件でした。
 悲しみに脱力している幸平とは対照的に、幸平の本とわかってやった子は、まるで他人事のように、無表情でした。もう1人の子は「しまった」とばかりに目が泳いでいて、お小言も神妙に聞きながら頷いているんですが、2人の態度はとてもかけ離れていました。元々表情の乏しい子なのか、心の中でどの程度幸平の「悲しみ」を理解しているのかはわかりませんでした。これまでトラブルにあったことが無いのかなぁ、ひとつひとつのトラブルをちゃんと消化してきているんだろうかなどと、ちょっと気になったのでした。

・心に響く声

 なんだか小説のタイトルのようでもありますが、まぁ、わたしが書くものですから、そんな高尚なものじゃないことは予想がつくでしょう。
  「親業」を子育てのバイブルとあがめ始めてから早(はや)4年、子供への言葉掛けの仕方は、今や部下への言葉掛けや、友人との会話にまで影響するようになってきました。ただ、残念なことに、まだヒトとしての修行の足りないわたしは、自分が冷静な状態であるときにしか、この技が使えません。なかなか聖人君子には近づけない‥‥って、当たり前だけど。
 昨年、幸平のクラスはとても落ち着きがなく、授業中に子供同士が喧嘩することも多く、「学級崩壊?」なんて言葉もささやかれるほどでした。学期が進むうちに担任や保護者の努力の甲斐あって、だんだんと落ち着いていったのですが、それでも「落ち着かない雰囲気」は学年末の頃にも残っていました。3年生になって、あの騒がしいクラスの中でもひときわ目立っていた子供達がほとんど同じクラスになったので、「あらぁぁぁ(どうしましょう)」と不安だったのですが、学年最初の参観に行って、全く去年と雰囲気が違い落ち着いていたので驚いてしまいました。

「数ヶ月前といったい何が違うんだろう。」

 1学期の参観授業での子供達と担任の様子、家庭訪問での担任との会話から、担任の先生の言葉掛けが、あのクラスの子供達の心のテンポにしっくり馴染んでいるような感じがしました。うまく表現できないけど、担任の声が子供達の心に響いている、これを幸平が幼稚園頃担任だった先生の言葉を借りて表現すると「胸落ちしている」というのですが、まさにそんな感じでした。
 今度の担任の話し方は、どちらかと言うと感情が介入しない感じ。淡々とした口調なんですが、何か面白いと感じさせるものがある。ちょっと引き付けられる。どうしてなんだろうかと思うんだけど、よくわからない魅力のようなものなんです。(説明になってない‥‥)

・気持ちを引き出すことの大切さ

 今回は、ひとりごと・・・・・・
 他人の行動を批判すること、他人の言葉に同調すること。どっちの簡単にできること。
 他人の悩み事を聞くこと、相談に乗ること。ちょっとの努力でこれも結構できること。

 相手の気持ちを引き出すこと、理解すること。これはちょっと難しい。努力と忍耐と技が必要。更に、引き出した気持ちを本人自身に気づかせること、本人の考える力が目覚めるようにアプローチすること。ここまで来るとまさに神業。

 この神業、もしくはそれに近いものを持って相手に対峙することが「カウンセリング」だと解釈している。今私が学ぼうとしているのはまさにこれである。おこがましくも神業の近くをかすりたいと思って勉強している。
 自分の浅い人生経験から得たものだけで、まったく違う人生を歩いている他人に「アドバイス」することに抵抗のなかった私の目には、技を使って他人の気持ちを引き出すことの難しさと、悩める本人の本来の解決能力が目覚めるように「誘導する」難しさを持つ「カウンセリング」は、とても魅力的に映った。
「アドバイス」するときの主役は、「アドバイス」する私自身、でも「カウンセリング」するときの主役は悩める相談者自身。私は脇役できっかけを作るお手伝いするだけ。なぜ、これが魅力的に映ったのだろう。
 考えるに、「アドバイス」は効き目は早いかもしれないけど、別の悩みが生まれた場合には通用しないその場限りのもの。だから違う場面でつまずくとまた「アドバイス」が必要になる。でも自己解決力を少しずつ身につけていければ、やがて他人の力添えがなくても自分自身でやっていけるはず。自己解決力を身につける、こんなすごいことの手伝いができるなんてやっぱりすごい!魅力を感じるわけだ。そう思う一方で、この技を身につける大変さと、実践する難しさも感じているし、勉強したところで、私にできるのかはまだわからない。
 でも、気持ちを引き出すことの大切さ、これをベースに、忘れないでやれることから一つずつやっていこうと思ってる。

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